水戸黄門なる人物が「弱きを助け強きをくじく」というスタンスでテレビドラマに出ていても、特に違和感はないものだ。なるほど、彼がいた水戸藩は世直しのモチベーションを持つ藩だった。脱藩した浪士たちにより桜田門外の変が起されたくらい。そんなわけで、水戸黄門が正義の味方なのは、そういうDNAの持ち主なのだとなんとなく了解してしまっている。
これが、ど田舎の東北の藩主・伊達政宗が全国行脚して、悪代官を懲らしめるような物語だったなら、地方偏狭の外様大名が何やってるんすか、いいですかウロウロしてて……という話になってしまうだろう。そんなことしてねえで、参勤交代をちゃんとしろ、という話になってしまうのである。
その点、水戸藩は徳川将軍を輩出する幕府寄りの藩でもあるので、藩主が全国をウロウロしていてもとくに不自然ではないだろう。社長が会社のなかをウロウロしているようなものだ。社員の仕事ぶりを見ているのだろうとか、平社員には思いも寄らない仕事をしている途中なのだろうとか、周囲は好意的に受け止めるに違いない。
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とはいえ、水戸黄門には彼なりの悩みがあるのである。悪代官がいないと、彼の立場は非常に困るのである。アイデンティティがゆらぐのである。交通違反をしないと仕事の点数を稼げない警察官のように困るのである。
すなわち、悪代官がいない水戸黄門は、たんなるシニアの旅行者になってしまうからだ。これでは観光名所の紹介と由美かおるのお風呂シーンを披露するぐらいでしか、彼の行脚物語は社会に貢献できないのである。勧善懲悪の、視聴者をスカッさせるような成敗を披露できないのだ。視聴者は打てない大谷翔平をみるように、ガッカリしてしまうだろう。
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正義の人になるてっとりばやい方法は、悪いやつを見つけることである。悪いやつがいなかったら、だれかを悪いやつにするのである。そうすると、悪いやつ以外の人は良い人になれるのである。
ところが、非常に難しいことがある。古今東西、誰が見ても悪いやつ、というのは実は存在しないのである。かっこいい言い方をすると、言語ゲームなのだ。大工の親方が弟子に「あれ」と言っただけで、弟子がトンカチを持ってくるように、ことばの意味はルールで決まるのである。違う親方の下にいる職人や、まして異業種の料理人に「あれ」は通じない。
水戸黄門に登場する悪代官が「悪いやつ」と見て取れるのは、視聴者はこのテレビドラマの世界のルールに基づいて鑑賞しているプレーヤーの一人だからである。そうでないと世界が成立しないのだ。
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もし、水戸黄門がいまも日本全国を旅していたなら、いまも「悪いやつ」を探しており、いなければ誰かを悪いやつにするだろう。そうでなければ、正義の味方にはなれないからだし、番組のスポンサーがつかず、番組は打ち切りの憂き目にあってしまうだろう。
悪い人がいるかぎり、水戸黄門はシニアの旅行者でなく、正義の味方でいられる。
だから、気をつけた方がいいぜ。悪いやつってのは、必ずしも悪いやつではないのだ。