シーム・ニコラス・タレブの著書『身銭を切れ』では結局、読者にオオカミになれといっているのでしょうか? それとも犬になれと主張しているのでしょうか?
ジハード戦士は身銭を切っていない
いつも怒っているナシーム・ニコラス・タレブさん。著書『身銭を切れ』では従属関係が持つ利点と欠点、身銭を切ることによって生じる自由の制約について論じています。私はこの考察に納得するところが多かったのですが、「タレブさん、怒りすぎて言っていることがブレてないか?」と感じるところもありました。その1つはジハード戦士は身銭を切っていないという主張です。
タレブ氏は他人の評判なんてこれっぽっちも気にしちゃいない人のことを自由人(放浪する修道士、情熱的で人間味のある営業担当者、儲けを出しているトレーダー等)として、肯定的に定義しています。しかし、自由人にも「弁慶の泣きどころ」(the Achilles’ heel)があると漏らし、その1つにジハードの戦士によるテロリズムを挙げています。「個人の犯した罪で、その家族を罰することは許されるのか?」を論点として論じます。
論点「個人の犯した罪で、その家族を罰することは許されるのか?」
タレブ氏は自由に独身が欠かせないと言います。社会は個人の行動の責任を集団内の誰かに背負わせてきた歴史があるからです。たとえば、ドイツの納税者たちはいまだに祖父母や曾祖父母の世代の戦争賠償金を払いつづけています。対立を避けるには、友だちをひとりも作らないようにしなければなりませんと主張します。
ただし、ジハード戦士のテロリズムには連帯責任を求めています。タレブ氏はジハード戦士がダウンサイド(下振れリスク)を背負っておらず、つまり身銭(投資、リスク)を切っていないと非難します。
ジハード戦士に対しては手厳しい。「あなたが私の家族を殺しても罰を受けるつもりがないなら、あなたの家族に一定の間接的な対価を払ってもらう」というルールを設けるべきだとして連座制(?)のような制裁を求めています。
私は、このぐだりがよく分かりませんでした。タレブ氏はジハード戦士が家のローンを組んだり、企業に忠誠を誓っていなかったりしていることを非難しているでしょうか。(全共闘世代たちが世帯を持ったり、就職したりしておとなしくなったようなことを、ジハードの戦士にも求めるロジックなのでしょうか?)
私は自爆テロを仕掛けるジハードの戦士の肩を持つ訳ではありませんが、彼らは自らの命という身銭(投資、リスク)を切っているのではないかと感じるのです。それに、タレブ氏だって同書において「組織というものはすべてその構成員から一定の自由を奪おうとする」と指摘し、「何があっても、オオカミのふりをした犬にだけはなっちゃいけない」と強調していたはず。
タレブ氏は自由人、オオカミのふるまいを支持しているように読めたのに、なぜか組織としての連帯責任を求めているロジックも共存していることが、どうも理解できない点でした。
想起する「身銭を切っていないテロリスト」 ボコ・ハラム
私は「身銭を切っていないテロリスト」というものも確かにあると思っています。たとえば、ナイジェリアのサラフィー・ジハード主義組織「ボコ・ハラム」です。彼らは自分の身体にではなく、誘拐してきた少女たちに爆弾を仕掛けるのです。こうしたものこそは「身銭を切っていないテロリズム」なのだと感じます。自らの命ではなく、他人の命でリスクで実行するテロリズムです。
私はタレブ氏が5世紀ごろに存在したという、物欲がなかったために、金銭的に自由で、怖いもの知らずだった放浪修道士に理想の原風景を見ているのだと思っていました。そこから私は幕末に脱藩し、幕府を倒そうとした浪人のような生き方、働き方を思い浮かべていたのです。組織から抜け出て一人で行動するべきだと主張しているのだと思っていましたのですが……。