知的教養は生きやすさに影響します。例えば、財務諸表を読む知識が皆無であれば、取引先の経営状態も読み解けません。教養は一緒に考えてくれるアドバイザーみたいなものです。
知らないことに気づくため、私たちは学校に行ったり、読書をしたり、新聞を読んだり、人から話を聞いたりして知見を得ます。教養や文化的な素養はもちろんですが、そこで得た学位や資格も、働いたり、起業したり、さまざまなことで機能します。生きるために活用するのはマネーだけではありません。こうして得た糧は人生で必要なものを獲得するための資本でもあります。
フランスの知識人、ピエール・ブルデューによると資本は預金残高のように数字で表せるものだけでないと主張しました。お家にある書籍や絵画などはっきり目に見える物だけでなく、免状や証明書などを制度の代替物によって表象されるものも含めて資本だと言います。これら文化的な要素を「文化資本」を呼びました[1]。
新聞が読めるかどうかで、その後の人生は大きく変わることでしょう。2011年の夏に会った仙台に住む情報弱者の知人は、3月に福島で起きた原発事故を知りませんでした。彼は新聞を読まない人間だったようです。
自分自身や親戚や両親の振るまい等を観察していますと、自らの無知に対して「それは私がバカだから」と大ざっぱに結論づけて納得してしまうことがあります。確かに、そうかもしれません。でも、そこから更にどこが・どのように・どれくらいバカなのかめぼしを付ける必要があります。そうすれば具体的な解決策も見つかりやすくなります。
私が子ども時代を過ごしたのは、自然豊かな東北地方のへんぴな田舎。放課後はカブトムシやクワガタムシ、ザリガニを探しまわることに多くの時間を割き、少年野球で河川敷を走り回っていました。地平線まで田畑が広がる実家の周囲には図書館というものは存在せず、家の中にも文化資本と呼べるものは限られており、例えば巨人ファンの父が購読する読売新聞、母が衝動買いした集英社の日本文学全集、そしてテレビとラジオくらいのものでした。
こうした文化資本のなかで育った私は中学生の頃、知的世界にも憧れを抱きはじめました。しかし、悲しくも読売新聞のスポーツ面から政治経済面等ものぞいてみるものの、そこには何が書かれているか検討がつきません。政治経済の知識がなかったからです。
私が生まれた実家は預貯金はどうだったかは分かりませんが、文化資本という視点で考えると貧しかったようです。
【脚注】
- 差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む」石井 洋二郎 (著)、藤原書店、p26 ↩