知り合いから教えてもらったSF映画『メッセージ』は「言葉」や「時間」をテーマにしているとのことで、はツボなテーマなものですからNetflixで見てみることにしました。監督は『ブレードランナー 2049』で指揮をとったドゥニ・ヴィルヌーヴ。『ブレードランナー 2049』は前作を踏まえたすばらしい出来映えで、退廃的な映像美が印象に残りました。でも、『メッセージ』に関しては『ブレードランナー 2049』には及ばなかったみたい。
物語では地球各地に宇宙船が飛来し、人類は混乱に陥っています。宇宙船に乗っている宇宙人(ヘプタポッド)の見目姿は巨大なイカそのもの。人類は彼彼女らと対面に成功するものの、何を話しかけてもヘプタポッドらは「ぶほ、ぶほ」しか言わず、しかもイカようにスミまで吐きだします。地球にやってきた理由が分からないものですから、人類は恐怖におののき、国際間でも足並みが整わず、各国首脳は狂気に陥り戦争すら起きかねません。
ヘプタポッドが地球にやってきた理由を解き明かすため、アメリカ軍は言語学者のルイーズ・バンクスに翻訳の依頼します。ヘプタポッドが吐き出しているのはイカスミではなく、なんと文字であることを発見したルイーズは、瞬く間にプタポッド語を解読してしまいます。
ヘプタポッドは未来が分かるらしく、3000年後に人類の助けが必要となるため、国際的な緊張と危機のなかにいる人類を救くためにひょっこりやってきたみたいです。こう説明するのは人類を恐怖と混乱に陥れている張本人であるところのヘプタポッド自身ではなく、登場人物たちの語りや感想、説明によってです。ヘフタボット自体はやはり「ぶほ、ぶほ」としか発していません。
私はこの映画は歴史に残らない予感がしました。といいますのも、現実のアカデミズムにいる言語学者たちや哲学者は、『2001年宇宙の旅』のように、この映画を論文に引用することはないと思ったからです。
人類の過去を振り返れば、神秘とは何かを指し示すために、ナザレのイエスはたとえ話を駆使しましたし、ウィトゲンシュタインは語り得ぬものには沈黙しなくてはならないと啖呵を切り、もしくは日本の禅僧は○を書いてみたりしました。
半月形の宇宙船に乗っている宇宙人が使う文字は、丸みを帯びた表意文字とされ、なぜこれが表意文字なのか私はいまいち理解できないのだけど、映画ではそういうものだということになっています。過剰に問わないことが、この映画鑑賞する上で必要なルールのようです。
劇中の言語学者は、宇宙人の日常生活ではなく、この丸みを帯びた文字にひたすらに関心を集中させます。あれよあれよというまに「DEATH」「EARTH」「WALK」……と辞書的な意味を与えていきます。しかし、意味と対象がなぜ合致したのかは、その理由は映画で示されません。
エイリアンにとっての「DEATH」(死)とは何なのでしょうか。心臓、肺、脳の機能が停止することなのでしょうか? ヘプタポッドにこうした臓器があるのかを、人類は知らないはずです。このような疑問を抱くと、もうこの映画の中には入り込めなくなってしまいます。にもかかわらず、言語学者のルイーズは「DEATH」という意味を、言葉とされるものに与えます。
名詞や動詞といった文法的なことが分かっても、それが言葉の意味が分かったことにはなりません。あなたはわが家で日常交わされる「あれはどこ?」の意味がわかりますでしょうか?
宇宙人の言葉を理解するためには、宇宙人と日常生活を共にする必要があります。そうすれば、言葉の意味を規定するルールを体得し、「あれ」とか「これ」というレベルで、言葉の意味を理解できるようになれるかもしれません。(ちなみにわが家で「あれはどこ?」は大抵「メガネどこ」という意味になります)
したがって、この映画において宇宙人は、あくまで人類の一種として描かれており、きわめてある種の世間じみた存在でもあります。
発表から半世紀を経て、「2001年宇宙の旅」がいまだに色あせないのは、モノリスが一切言葉をしゃべらないからなのかもしれないと気付きました。劇の最も重要なところで登場し、しかも一切の言葉を発しない。しかし、意味は示している。その示された意味は形而上学レベル(真善美)のものなので、哲学者たちの格好の研究対象になっています。
一方、『メッセージ』は言語学や数学的なテクニカルタームのおしゃべりによって、映画鑑賞者や読者を煙に巻き結界を張っています。ストーリーが崩壊しないように予防線を張っているのです。
劇中の言語学者の理論は崩壊しているように見えます。ネット界隈を見てみると、この映画がは割に評判がいいらしい。私はまったく理解できないものですから、だからこそ、だめだと思ったところを分析してみると、また新しい物語が脳内にできあがってくるようにも思えてきました。
宇宙というスケールのでかさと、時間を追憶するなどはアンドレイ・タルコフスキーの映像美を彷彿させるものの、先にも述べたとおり、おしゃべりな宇宙人のせいでこの映画は台無しになっています。