人を変えることはできないが、人は変わるべき時にその人自身によって変わる

(写真=PhotoAC

お金持ちだから、幸せになれるわけでもないみたいです。ここ最近、お二人の人生の先輩と知り合いました。どちらもシニアの方です。ここでは優しいAさん、きついBさんという呼ぶことにします。どちらもお金持ちです。

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優しいAさん、きついBさん

優しいAさんは自分の弱さを見せることができます。「最近、目が悪くなってよく字が見えない」とか言って、分からないことを聞きにきてくれます。私はAさんのことが大好きなので、頼りにされるととてもうれしくなってしまいます。

Aさんは自分の能力を超えたことには他人の助けを求め、できることでは他人を助けます。あほなは、Aさんはとても頼もしい存在です。近くにいるだけで、周囲の重しとなって冷静にさせてくれます。おしゃれで教養もあります。教養といっても難しい知識をひけらかすのではなく、童話からの引用もあります。私は常々、このようなカッコイイ紳士になりたいと思うのでした。

一方、きついBさんは他人の弱さを絶えず探し、うわさ話と陰口ばかりしています。パワハラやDVの気質があるようです。他人の「無知」を見つけると、「常識」をふりかざして攻撃をします。どこかしら近寄りがたく肝心なときには頼れません。周囲の人たちもどこかしらピリピリしています。

ところが、ここからが面白いところです。難ありの人物に見えても、Bさんは社会的に孤立していません。人は、似たような気質の者同士でつながります。Bさんの周囲ではうわさ話が大好きな人たちが集まり、コミュニティが作られているのでした。

どうして立場の弱い者を攻撃したくなるのか

優しいAさん、きついBさん。どちらも高学歴で、高収入で、世間で尊敬される仕事に就いています。どうしてこのような違いがでてしまうのでしょうか。私はBさんが少々苦手です。そんな折りに、Bさんのような人物を話題にしたブログ記事を見つけました。

『50代からの貧乏ながら気楽な人生』より(Photo=kimukuni)

愛読するブログ『50代からの貧乏ながら気楽な人生』の「親族の飲み会でまたやらかした最低男」[1]という記事です。一節を引用してみます。

親類の一人に大学を出てから公務員一筋で勤め上げた人がいる。彼は数年前に公務員を退職され、現在は自治体から紹介された企業で働いている。

出典:親族の飲み会でまたやらかした最低男 – 50代からの貧乏ながら気楽な人生、(閲覧日:2019年2月8日)

この記事のなかで登場する親類の方は「弱者を一括りにして排除する考え方」で、「国の世話になっている奴など、日本から出ていけばいい」とまで言い放ちます。高圧的で攻撃的なところはBさんとそっくりです。どうして自分の立場を上げたくなるのでしょうか。以下は私が観察したところの分析です。

余裕がなく暴力的な人は、隠された劣等感や引け目もあるように見えます。プライドを守るため、周囲を攻撃したくなるようです。自己否定の苦しみから逃れるため、他者を攻撃します。すると、相対的に地位は高まり(自己肯定感が生まれ)ます。しかし、その「余裕」にはどこかしら張り詰めた緊張感がともなっています。この相対的な「余裕」を維持するために、ふたたび暴力をふるう必要があるからです。

自己否定的な人は他人に否定的。まるで、終わりなきもぐらたたきです。能力や才能があるのなら、それらを使ってみずから羽ばたけばいいはず。しかし、自らの力で羽ばたけません。だから、周囲を攻撃します。暴力は相対的に「上昇した」(羽ばたいた)かような錯覚を楽しめるアシッドなのです。

暴力をふるえば訴えられるリスクも生じます。ハラスメント気質な方の人生は訴訟リスクを負っています。力わざで相対的に立場が上げても心穏やかにはなれません。

人を変えることはできませんが、変わるべき時にその人自身によって変わります。ただし、周囲はいつその時がくるのかは分かりません。できるのはきっかけを作ることだけです。変わらないものとして、おつきあいするしかないようです。


【脚注】

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この記事を書いた人

法政大学文学部哲学科卒。編集関係の業務に従事。金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味は絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。

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