私が本を読むときは、次のいずれかだ。1つは必要があって勉強するため。2つは迷いがあってアドバイスを求めているとき。
身近に信頼できるアドバイザーがいれば、本を読むことも減るだろう。しかし、いざというとき近くにそのような人がいると限らない。親兄弟も信用できる教養人とは言いがたい。だから本を探す。書物を通して時間と空間を越えて、私たちは信用できそうな人と出会い話を聞く。本を読むことは話を聞くことに他ならないと思う。
話を聞くなら、レコードでも、テープレコーダーでも、デジタルファイルの音源でもいい。ただ、数百年〜数千年前の記録(話)となると、どうしても文字に頼る必要がある。
白水社版モンテーニュ『エセー』第1巻をポチってみた。
モンテーニュさんは16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者。しかし、西洋哲学史では主人公として扱われることは少ない。どうしても哲学界の中心人物は、プラトン、カント、ヘーゲル、ハイデガー……といった巨人になりがちだ。しかし、モンテーニュさんには彼らにないとっておきの魅力がある。文章が平易なのだ。
彼は「悲しみについて」こう語る。
わたしは、悲しみという感情をもっとも知らない人間に属している。この感情を好きでもないし、それに重きをおいてもいない。
悲しみの力が極度のものとなると、魂そのものが大いに驚愕して、その自由な活動がさまたげられる。
わたしの場合、こういう激しい衝撃におそわれることはほとんどない。生まれつき、感じ方がにぶくて、おまけに、これを日々、理屈という外皮でおおって、ぶあつくしているのだから。
出典:エセー1 Kindle版 ミシェル・ド・モンテーニュ (著), 宮下志朗 (翻訳)
もの悲しい秋だっただけに、「この感情(悲しみ)を好きでもないし、それに重きをおいてもいない」と言い切っていることに驚いてしまった。どうだろう。哲学書の文章に思えるだろうか。
モンテーニュさんには、超人思想というか、生の哲学を思わせるものを感じた。少々わびさびが分からない人かもしれない。そんな不完全さも人間味として感じてくる。
モンテーニュさんとの会話を、『エセー』を通して時間をかけて楽しみたいと思う。