本書を手に取るまでの長いあらまし
なぜ社会に役に立たない哲学科に来たのかい?
90年代はじめのこと、お尻から血がでるくらい勉強して大学の門をくぐった私は、先輩からこんな意地悪な質問をされました。かくいう先輩も、哲学科のくせに。
私は法政大学に籍を置いていたのだけど、隣駅にある上智大学の哲学科にも友だちがいた。友だちの友だちで仲よしになった彼は、ほとんどの学友たちはうつ病検査で陽性反応だったと、中原中也のようにうそぶくのでした。周囲は藤村操のような、いまにも死んじゃいそうな人たちばかりでいっぱいに見えた。私は、すごい世界に来てしまったと思いました。でも、同時になぜかワクワクもします。だって、ブルージィで、おもしろそうじゃないですか。
私が記憶する90年代はこんな風景です。
ぜんそく病みの哲学者ジル・ドゥルーズさんが、1995年に自宅アパートから飛び降りるまでフランス現代思想は(私の周囲では)絶大な人気がありました。スキゾだのリゾームだのと唱える、エネルギッシュな若者たちが友だちになってくれました。
たとえば「だめ連」です。ペペ長谷川さんと出会ったころ、彼はちょうど早稲田大学を卒業しようと悪戦苦闘をしていました。彼の卒論のテーマはフーコーの師匠筋にあたるルイ・アルチュセールだったと記憶します。周囲はフランス現代思想とか柄谷行人とか、そんな会話ばかりであふれていました。
周囲の知的グループと友だちになりたかったので『アンチオイディプス』『ミルプラトー』『差異と反復』といった、電話帳のように分厚く高価な本を古本屋で買い求めました。しかし、そこに書いてあることは、ちっとも理解できません。太陽肛門、なんだそれ?みたいな。
哲学ゲームをたのしむには、最低限のルールをおさえておく必要がある
ところで、大学は入学するのは大変だけど、卒業するのはカンタンだ、とは大間違いではないでしょうか。こんなことを言うのは、きっと優秀な人なのか、本当にカンタンに卒業できる学校の出身者なのでしょう。とにもかくにも、入学も大変だったけど、卒業も至極大変でした。私は、気難しいウィトゲンシュタインのでたらめな卒論を書いて、やっと大学からおさらばできた。
私は哲学科にはいたものの、哲学がわかった実感がありませんでした。のど元に魚の骨がささったような感じです。あれから、数十年たったいま、その理由が分かってきました。それは、ばかみたいな話だけど、社会科の受験科目は日本史で、政経倫理ではなかったことが大きい。高校で学ぶ「倫理」では、哲学の基礎を学びます。私は基礎がないまま、哲学の大海に飛び込んでいたのでした。
野球やサッカーの世界と哲学の世界は、それを楽しむ心得自体は大して変わりません。ゲームに参加するためには、最低限のルールをおさえておく必要があります。このことに気づいたので、もう一度、哲学を勉強しなおせると閃きました。
ざっくりと哲学の世界を鳥瞰(ちょうかん)できる本は、哲学ゲームをたのしむ、たのしいルールブックという印象がします。専修大学で教べんをとる貫成人さんの「大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる」はよい本です。哲学を勉強してみたいなと思った人は、まず最初に手にとってみてもよいでしょう。
本書の構成は、片ページに解説、他方のページが図解になっています。
本書を実際に手にとってみると、10時間で読み終わるかどうかは、ひとそれぞれ。集中して読めば、2時間で読み終えることもできそう。その理由は、片ページのテキスト部分は、おおむね600字程度になっている。この字数は、朝日新聞の「天声人語」や読売新聞の「編集手帳」といったコラム記事に相当します。
分かっても分からなくても、哲学はおもしろい。解けないクロスワードパズルにとりかかるような道楽的なおもしろさもあります。医学、物理学、精神分析学、経済学、宗教学…。あらゆる学問をつつみこむおおもとなので、実世界で役立つこともある。Googleなどの検索機能も、おおもとをたどれば、真偽をさぐる論理学の成果ともいえる。映画や小説にふれたときも、感じ方も変わってくる。哲学は知識をため込むお勉強というよりは、体験型エンターテイメントです。
私は、そもそも辞書的に使おうと思って購入したのだけど、コラム調の親しみやすい語り口は読みやすい。いっきに読んでしまいそうです。