若かりし日に好んで読んだのは、太宰治のような破滅的な物語だったけど、いまではロケンローな作風より、人情味ある作品がしっくりくるようになりました。たとえば永井荷風の作品には、古き良き時代の美しさもあり、心地よい読みやすさがあります。
荷風は慶應大学の主任教授という華やかな経歴を持つ一方で、芸妓あそびの交情で私生活は破綻気味でした。このためか、作品には道を外した者への温かいまなざしがあります。
中編小説の『すみだ川』(リンク先は青空文庫です)は十八歳になる学生の長吉と、二歳下の幼馴染、お糸と淡い恋物語です。
時代は明治の後半。お糸は、せんべい屋の娘でした。家運が傾いたこともあり、十六歳で葭町の芸者となります。長吉は、日に日に大人びてゆくお糸への想いを断ち切れません。想い深まるにつれ、学業を辞めて役者になりたいと思います。しかし、母の厳しい監視もあります。遠くに行ってしまうお糸を想っては、悲嘆に暮れてばかりいるのでした。
長吉の母のお豊は、常磐津の師匠です。常磐津とは、三味線音楽の一種ですが、母上は芸事を生業とする人生にまったく理解がありません。というのも、お豊はもともと質屋の箱入り娘だったのですが、家業が没落後、口を糊するためにお師匠をしていました。息子の長吉には、ぜひとも大学に行かせ、安定した仕事に就かせたいと夢見ています。
長吉は、どうにもならない人生に学業をやめ、自暴自棄となり、重い病に倒れてしまうのでした。
この物語には、幾人かの魅力的な人物が登場します。私が大好きなのは、お豊の兄であり、長吉の叔父である松風庵蘿月という人物です。相模屋の跡取り息子だったのですが、道楽をしすぎて勘当され、俳諧師として世を渡る、若隠居の身です。このように若かりし松風庵蘿月は、周囲にさんざん迷惑をかけて生きてきた男なんだけど、人情味があって大好きだ。長吉の最後の理解者とも言うべき人物です。
物語の舞台は、浅草周辺なのだけど、いまの風景とはずいぶん違っているようです。このような情景描写も、この物語の大きな魅力です。
想えば、私が若かりし日に好んで読んだのは、やはり太宰治のようなハチャメチャな人生物語だったけど、不惑の四十を過ぎたあたりから人情味のある作品がしっくるようになりました。ハチャメチャな人生自体はさしてドラマチックでなく、そこから生まれる人情に美しさがあります。