ちょいワルな感動に飢えているのです。
感動系バイラルディアから垂れ流される話を読んでいたら、自分の人生に置き換えることもできなそうな勧善懲悪な話ばかりで気持ちはますます暗くなってきた。
いまごろなんだけど、町田康の『くっすん大黒』を読んだ。だいたいのストーリーは知っていたのですが、素晴らしかった。
感動記事を町田康で中和
齢四十をすぎると、文学が面白く感じられ、さらに下の動画を見ていたら、無性に町田康を読んでみたくなった。
町田康が内田百閒を紹介しているけど、戦争中に酒のことばかり話題にしていたりとか、いい加減さや居直りハチャメチャさを面白く解説している。戦争法案をめぐり時代はますます暗くなるけど、戦前の暗い時代を生きた内田百閒や太宰などの生き方は、いまの時代を生きるヒントになる気がした。
ミュージシャンも文学者も、カッコよくあって欲しい
ピース又吉もカッコいいですけど、町田康の語り口もカッコよくないですか?文学って、生き様というかロックなんだと思った。
町田康の語り口そのものが、彼の小説の世界を彷彿させている。
『くっすん大黒』が発表されたのは1996年なので、いまから約20年前なんだけど、その頃の自分はまだ学生だった。当時を思い返すと「町田町蔵がヘンテコな文体の小説を書いたらしい」と話題になっていて、文学談義に耳を傾けたものです。
『くっすん大黒』の主人公は、定職に就かず1日を部屋でただ酒を飲んで過ごしている、だらしのない男性です。その主人公が、妻が酒を飲ませてくれないと愚痴るところから作品は始まります。
はちゃめちゃな口語体のなかに難読な漢字が織り込まれている不思議な文体です。
ウェブ上で公開されている書評です。
この小説を旧来的な読み方をすれば、捨てるに捨てられない大黒とは、主人公そのものをさしていると言うことになります。しかし、この小説においては重要なのは、そのような文学上の象徴性よりも主人公の語り口なのです。
破壊的な世界に飢えている
世間の決まり切った常識に、飽きてしまった。世の中はトップに立つ人の意見で、常識も塗り代わる。町田康のブラックなユーモアを含む語り口には、世間的な常識が壊れてゆく快感を感じる。この点が、安っぽい感動系バイラルメディアが無料で垂れ流す話との大きな違いなのかもしれない。
三年前、ふと働くのが嫌になって仕事を辞め、毎日酒を飲んでぶらぶらしていたら妻が家を出て行った。誰もいない部屋に転がる不愉快きわまりない金属の大黒、今日こそ捨ててこます。
20代から30代を過ごした中央線沿いや下北沢界隈の世界をかいまみる思いで、懐かしくもあるけど、もうあの世界には戻れないな。という意味では、わたしは「世間の決まり切った常識に飽きた」なんて言いつつ、そっち側の人なのだろう。
本を読むことで「他者の経験を生きる」とはどういうことだろうか。一番わかりやすいのは小説だろう。小説には、他者(それがフィクションかどうかは関係ない)の経験が明確に描かれている。小説を読むことは、登場人物の経験を自分の経験として読むということだ。
若き日の町田文学、この後はどのような変化を見せたのかが読みどころとなるのかも。どうみても、町田康自身の実体験を予感させる描写もあり、とてもリアリティティを感じる。
オフラインで、本に親しむ時間が、とても愛おしく感じる今日この頃でした。