「悪の華」 地獄の系譜

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 「悪の華」というタイトルは、作家や編集者ならしびれるほど、格好いいと思うだろう。売れそうなタイトルである。

思い出すのは、80年代、ビジュアル系バンドのさきがけともいえるBUCK-TICK。彼らのアルバムに、「悪の華」がある。ボードレール風の19世紀末的退廃は、日本の20世紀末的退廃美とも結びついたようだった。
そして、最近では押見修造による漫画「惡の華」がある。これは、なかなかの名作だ。
21世紀は始まったばかりの今。大津波、環境破壊、原子力発電所事故、大増税……。悪いことづくめの21世紀は、生まれながらの世紀末。私に言わせれば、人類は毎日が世紀末である。

ボードレールは、どんな人だったのか?

Wikipediaには、この以下のような注釈がなされている。

 (ボードレールは)ルイ・オーギュスト・ブランキの中央共和派協会に入会し、二月革命には赤いネクタイを巻いて参加レアリスト画家クールベらと友好を結び、プルードンと会う。

 ボードレールは、フランス人のアナキストであるプルードンと親交があった。ボードレールが、どのような体系だった政治思想をもっていたかを、私は知らない。しかしながら、「悪の華」から垣間見る世界は、憂鬱、退廃と絶望。現実世界の賛歌というべき内容でもないので、革命への期待とも感じられる。
思想的体系をもたないアナキズムが分かりづらいように、「悪の華」も何を言いたいのかもわかりづらい。それは当然なのかもしれない。「悪の華」は政治ではなく、そもそも文学だからだ。
悪の華を読み解くには、19世紀末の退廃的な世界を把握する必要もあるだろう。近代資本主義が発達し、あわせて社会主義の思想が勃興しはじめた背景も把握する必要がある。もっとも、このことが、必要不可欠かといえば、そうではない。繰り返しだが、「悪の華」は詩集だからだ。文学を読むにあたり、「誤読」こそは、読者の特権でもある。
ボードレールの「悪の華」は分からない
押見修造による「惡の華」を紐解くと、主人公以外の登場人物たちは、概ね「悪の華」が分からないという。
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(引用:「佐伯 奈々子」の台詞/押見修造『惡の華』七巻,p.87,講談社)

 私は、「悪の華」をひも解くことがある。たいてい、何をいいたいのか分からない。陰鬱で、出口のない愚痴を聞いているような気持ちになってくる。冒頭の文言は、このような調子の出だしだ。

 われ等が心を占めるのは、われ等が肉をさいなむは、
暗愚と、過誤と、罪と、けち
乞食がノミを飼うやふに
だからわれ等は飼ひならす、忘れがたい悔恨を。
(ボードレール『悪の華』堀口大学訳)

 ボードレールは、きっと、まじめすぎるのだ。彼はエドガー・アラン・ポーの影響を受けている。ポーの不気味で退廃的美の魅力は、まさしくその“うそっぽさ”だった。繰り返すが、ポーが描く退廃はうそっぽい。一方、ボードレールは、マジなのである。マジゆえに、19世紀末のフランスで無政府主義の革命家たちと、席を共にまでするのである。ボードレールが描く退廃は、がちマジなのである。
地獄でいうなら、ランボーの方が格好いい

このマジさ加減が、読み手の私を疲れさせる。押見修造が描く世界はうそっぽい。それが、かえって読者の興奮をあおる魅力をもっていると思う。うそは大いに結構であるだろう。なぜなら、漫画も文学も映画もエンターテイナイメントだからだ。
ところで、ボードレールが影響をあたえた、アルチュール・ランボー の『地獄の季節』のように、格好いい決め文句があったなら、分からないなりに、ひも解く日々を過ごしたかもしれない。

 また見つかった。
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が
(アルチュール・ランボー 『地獄の季節』小林秀雄訳)

 私は、ランボーが言いたいことも分からないのではあるが、分からないなりに、語調がかっこよく、いまでも愛読する一冊だ。ランボーも、マジな詩人である。詩壇に不満があり若くして断筆し、砂漠を往来する武器商人となって人生を終えた人である。この人生自体にも、そそられるものがある。19世紀末的なジメジメしたものもなく、乾いた風景を思わせる。
アルチュール・ランボー 『地獄の季節』を引用した古典的な映画が「気狂いピエロ」だ。どこかしらうそっぽいところがイメージとして彷彿する。これもなんだかよくわからない話で、ストーリーを説明するがとても難しい。
Wikipediaのあらすじを、引用しておこう。

 「気狂いピエロ」と呼ばれるフェルディナン(ベルモンド)は、不幸な結婚をしていた。自らの退屈な生活から逃げ出したい衝動に駆られていたフェルディナンは、ふと出会った昔の愛人であるマリアンヌ(カリーナ)と一夜を過ごすが、翌朝見知らぬ男性の死体を見つけ、彼女と共に逃避行を始める。
アルジェリアのギャングに追われながらフェルディナンは充実した生活を過ごすが、そんな彼に嫌気がさしたマリアンヌは、ギャングと通じてフェルディナンを裏切る。すべてに絶望し、マリアンヌを銃殺したフェルディナンは虚飾に染まろうと考え、顔にペンキを塗る。さらにはダイナマイトまで顔に巻きつけ、死ぬつもりで火を点けるが、そこで我に返ったフェルディナンは火を消そうと焦るも間に合わずに爆死するのであった。

 たしかにダイナマイトで爆死するシーンと、アルチュール・ランボーの詩をカッコよく朗読するフェルディナンが印象的だった。しかし、どうして爆死なのか。ラストの不条理は、三島由紀夫の割腹自殺ようだ。
人の一生でいちばん美しい年齢
いくら読んでも分からない系譜のなかに、ポール・ニザンがいる。有名な最初の出だし以降、なんど読んでも分からない。

 僕は20歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも。世の中でおのれがどんな役割を果たしているのか知ることは辛いことだ。
(ポール・ニザン『ポール・ニザン著作集〈1〉アデン アラビア
』篠田浩一郎・訳)

 アデン・アラビアとは、ランボーが往来した地をいうのではないだろうか?そうかもしれないし、違うかもしれない。地獄の季節にしても、アデン・アラビアにしても、なぜ砂漠を目指すのか?理由は、格好いいから。憧れているから。なぜ、格好いいのか?ランボーみたいだから。では、ランボーみたいってのは、どんなこと?それに答えることは難しい。なぜなら、なんど読んでも分からないからだ……。
このように、「悪の華」とそれらに影響をうけた作品を、いかに分からないかをつづってみた。どうですか、よく分からないでしょう。しかし、魅力的なのです。なんど読んでも分からない……。

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この記事を書いた人

法政大学文学部哲学科卒。編集関係の業務に従事。金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味は絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。

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