子どもの頃、たとえば十代ですらなかった頃…。
四十代の自分を想像できなかった。
同様に、いま、十代ですらなかった頃の自分が考えていたことを忘れていて、その姿を想像できない。
子ども時代の自分は、いったいどんな自分だったのだろう…。
たいして、いまと変わらない気もする。
子どもと大人の自分の間には、世界の大きな隔たりがあるような気がする。
四十歳を過ぎて、周囲の「大人たち」を観察すると、
皆、少年のままであったり、乙女のままである。
私は「大人」になると、大人になるのだと思っていた。
しかし、子どもたちは、子どものまま歳を取っていくことに、
歳を重ねるごとに気がついた。
子どもが見ている「大人」と、「大人」が見ている「大人」では、どうも見え方が違う。
子どもにとって「大人」は、子どもとって人生のお手本であり、「大人」も大人として振る舞おうと努めるだろう。
「大人」自身が見る周囲のおじさんやおばさんは、自分と変わらない少年や乙女ばかりである。
「大人」の周りには大人がいないのだ。
私は「大人」になったとき、自分には手本にするべき大人がいないことに気がついた。
これが、「大人」の孤独であり、悲しみであり、恐ろしさだろう。
同時、醍醐味でもある。
手本にしたい人物を求めたいと思うこともあるだろう。
特定の人物を偶像にすることもあるだろう。
それぞれに理由があるのだ。
師匠を求めたいとか、パートナーを欲しいと思うことかもしれない。
これまでの私の人生を振り変えると、私はいったい誰を手本にしたのだろう。
記憶をたどれば、手本に思えた人物たちは一人でないと思う。
人生のなかで出会った素晴らしい人たち、格好いい人たち、学ぶべき人たちが、ない交ぜになった一人の人格として、私のなかで手本として形作られている気もする。
目次