「すごい」や「ふつうじゃない」世界をなぜ訪れたくなるのか?
想像を絶する「すごい」や「ふつうじゃない」世界を前にしますと、頭のなかが真っ白になる経験をします。日常生活では、わりとありふれたことです。
「すごい世界」や「ふつうじゃなさ」とは、理解できない異次元に、引っ張り込まれる体験です。理解できないので思考が停止します。一種の瞑想状態です。トリップ体験は癒やしに通じます。
例えば、野球の奇跡を見るようなファインプレー、うっとりする音楽、水平線のかなたまでさえぎるものがない海、人を寄せつけない山頂、晴れた空、誰にもまねできない芸術…。奇妙なことに、こうした霊験あらたかなことだけが「すごい世界」ではありません。例えば、ゴミ屋敷の狂気もその一つです。
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取り返しのつかない「ふつうじゃなさ」がゴミ屋敷です。意図せずして出現し、「説明的」であることを拒絶した創造物。人がやってしまった原因・理由不明なモニュメント。「なんなんじゃ?」「いままで見たことがない」。皮肉にも、ネガティブな世界も度を超すと、優れた美術作品になるのと似ています。ズジスワフ・ベクシンスキーの絵画作品への驚きと似ていると言えば、分かりやすいでしょうか。ゴミ屋敷の狂気は破調の美学です。
めまいがしてくる驚きを求めて、ついついゴミ屋敷をめぐってしまいます。ほとんど一人ですが、ときたま妻が一緒にいるぐらいです。
悲劇の地を訪れる「ダークツーリズム」
東浩紀さんは新著『ゲンロン0 観光客の哲学』で、戦争や災害など「悲劇の地」を観光の対象とする「ダークツーリズム」というアイデアを紹介しています。
「ダークツーリズム」は二次創作(「風評被害」と呼ばれることもある)されてしまった悲劇の地を、実際に観光してもらうことにより、「想像していたよりもはるかに「ふつう」だった」(p155)ことなどを体験するものです。
ぼく自身も最初にチェルノブイリを訪れたときには、幼稚な幻想しか抱いていなかった。ひとは、自分が「ふつうではない」と思いこんでいた場所に赴き、そこが「ふつう」であることを知ってはじめて、「ふつうでない」ことがたまたまそこで起きたという「運命」の重みを受け取ることができる。「ふつうであること」と「ふつうでないこと」のその往復運動こそが、ダークツーリズムの要である。
出典:『ゲンロン0 観光客の哲学』(p.57) ※赤字は引用者による
ここまで読んで、ふと思いました。個人的な悪趣味でやっているゴミ屋敷めぐりは、「ダークツーリズム」なんでしょうか?
「ゴミ屋敷めぐり」はダークツーリズムになりうるか?
ゴミ屋敷の驚きは、自分が「ふつうではない」と思いこんでいた場所に赴き、そこが(期待したとおり)「ふつうでない」ことを知ってはじめて、「ふつうでない」ことがたまたまそこで起きたという「運命」の重みを受け取ることにほかなりません。行ってみたら、ふつうの家だったのでは、ゴミ屋敷めぐりの下品な興味を満たせません。ダークツーリズムの着想とは似て異なっています。
ダークツーリズムには、悲劇物語として、前もって二次創作されている必要があると感じます。それがない「悲劇の地」の例を、一つ挙げてみます。ここで改めて気づくのは、「二次創作された」という意味には、「風評被害にあった」以外にも、「有名なところ」「話題性がある」という意味を含んでいることです。
宮城県名取市(なとりし)にある閖上(ゆりあげ)という小さな町は、赤貝で有名な港町でした。いまは津波で流されて、荒涼とした野っ原になっています。かつて、ここに人々が住み、商店街があり、魚市場があり、釣り人たちでにぎわっていたようには見えません。
かつての町の姿を知っていれば、たしかに東さんが言う「ふつうでない」ことがたまたまそこで起きたという「運命」の重みを受け取ります。しかし、3.11以前の風景を知らない妻は、この地を訪れても、昔から野っ原だったようにしか見えません。
閖上は、悲劇の地として、世界的に知られているわけでもありません。二次創作に相当する物語も見当たりません。その点、チェルノブイリや「フクシマ」は「二次創作」「風評」を今と比較する装置に変えて、悲劇物語として成立しています。
ダークツーリズムを行える悲劇の地は、案外限られると思いました。ゴミ屋敷に話を戻しましょう。ダークツーリズムは世界に知って欲しい悲劇を訪ねる旅です。一方、ゴミ屋敷めぐりは、世間から隠したい恥ずかしいものを眺めにゆく、のぞき見趣味がない交ぜになった下品な旅です。ダークツーリズムの高尚さとは真逆でありまして、下品の骨頂なのです。
その目的は観光なのか、教育なのか?
ダークツアーリズムが、公人の企画として成立するためには二次創作をむしろ必要とします。それらの地を訪れる人たち、例えば広島の原爆ドームを訪れる人たちの姿に、悪趣味性をあまり感じません。観光というよりは、教育事業に近い印象がします。そして、その参加者は観光客というよりは、修学旅行(sightseeing)の生徒に近い印象がします。
わが身をふりかえれば、悲劇の地全般を訪れたくなる心のどこかに、悪趣味ややじ馬根性があります。ピアニストのミスすることをひそかに期待して、リサイタルに足を運ぶよこしまな観賞者のように。
旅をしたいと思うことがあります。日常と切り放された世界に身を起きて、驚き、瞑想状態に身を置きたいときです。「なぜ、これが、いまここにあるのだろう」。瞑想状態を求めて、想像を超えたものを眼前し、やじ馬たる私の頭のなかは真っ白です。