ギリシャの哲学者プラトンは、私たちの生きる姿を「洞窟のたとえ」で表現しました。私たちは、暗い洞窟のなかにいて、むりやり壁を観るように固定されている囚人です。私たちの背後では、たいまつが灯され、その明かりで、美しい影絵が壁に映し出されています。私たちは、その美しい世界を真実だと信じています。
ときに、テレビや動画サイトの映像も、プラトンが言った「影絵」に似ています。ここでは、FacebookやYouTubeなどでよく見かける、いわゆる感動動画の「Why do some people go out of their way to help others?」をとりあげてみます。
動画のコメント欄を見ると、感動したという言葉が多くを占めます。しかし、水をさすようですが、共感できないシーンがいくつかあることを、ここでは告白しなくてはなりません。たとえば、水がじゃぶじゃぶと流れ出しているところに、鉢植えを置く冒頭のシーンもその一つです。
鉢植えに大量の水を与えすぎてはいけません。季節によって、数日おきにどれくらいという具合に決まっています。でなければ、彼は植物を根腐れさせ、枯らしてまうことになります。
植物が枯れるのは、水不足だけでありません。根詰まりを起こすので、適切な時季に新しい土、少し大きめの鉢に替える必要もあります。もしも、動画に登場する男性が、固くなった土に目をやり、植え替えをはじめたら、感心できたかもしれませんが。彼は植物の育て方を知りません。知らないこと自体に彼は気づいていません。これ以上の指摘は控えますが、善かれと思った過ちを、この動画では他にも発見できます。
この動画のメッセージは、次のような「善意」だと思います。「人々は、優しさや、慈悲に飢えている。だから、愚か者にみられようとも惜しみない慈悲を与えよう。そうすれば、あなたはお金では買えないような見返りを受け取るだろう」と。でも、このメッセージに同意したくても、ウソが盛り込まれているのはぬぐえない事実であり、どうしてもこのメッセージに酔いきれず、イヤな気分になってしまうのです。
ところで、プラトンの師匠ソクラテスは、美しい影絵ではなく、現実の世界がある洞窟の外に人々を連れ出そうとしました。しかし、不敬罪となり、ドクニンジンによって毒殺されます。同じようなプレッシャーは、現在を生きる私たちにも起きます。私にしたって、壁に向かっている一人の囚人に過ぎません。「感動した」「幸せになった」が連なるコメント欄に、「同じことをしてみれば、枯れてしまうことが分かる」なんて書いたりしないからです。でも、一人の囚人なりに、目の前に映し出されることがらが美しく見えるからといって、常に正しいわけでないということは、覚えておこうと思いました。