ゴミ屋敷ってのは、まったくをもって宇宙と同じ恐怖と神秘の魅力がある。それが生まれたきっかは、ベールに包まれている。秘密には知りたくなる誘惑があり、私たちの興味と関心は絶えず刺激され続けている。ゴミ屋敷も誕生の歴史をめぐっては、簡単に答えを返してくれないのものなのだ。
思い返せば、私自身も若かりし日、すみかを「汚部屋」にしてしまったことがあった。20代から30代にかけてハードワークでぶっ倒れてしまい、半年ほど静養をしていた頃の話だ。お風呂に入る体力もないので体は不潔になるし、部屋の掃除もしなくなる。半年間で、部屋はコンビ二弁当とペットボトルですっかり埋もれてしまった。部屋ってのは、人の内面を映し出す鏡なのだなと、その時に思ったものだった。
絶望や不安があると、ワラをも摑む思いで周囲にすがりたくなる。実存するならゴミすらも財産に見えてくるだろう。ゴミとも長く付き合っていれば愛着もわく。だから、ホームレスがレジ袋にゴミとしか思えない何かを詰めて彷徨う姿を見かけると、私は彼彼女らの気持ちを少なからず理解できるような気がする。
汚部屋が整頓されて生まれて変わっていく過程は、快復の道のりそのものだ。自らの部屋を他人事のように客観的に観察すれば、いまの自分の状態もつかめるだろう。
とはいえ、汚部屋もゴミ屋敷にまで成長すると、人智を超えたパラレルワールドである。もはや後戻りできないレベルのゴミ屋敷っては、ポーランドの画家ズジスワフ・ベクシンスキーが描いた悪趣味な絵画のように、完全に違う星の話に思えるだろう。ベクシンスキーの絵画は画家個人が生み出したアートだったが、ゴミ屋敷は都市という集合体が生み出した悪趣味なアートなのかもしれない。ポルノと抗議をうけた会田誠の作品のように、「上品」な作品だけがアートだと捉えられがちだ。破壊的な影響を及ぼす悪趣味なアートの方が、力を持っていることもあるだろう。
悪趣味で破壊的でパワフルなアートを読み解くにはコツがいる。我々は「宇宙」を旅する者に過ぎず、「ミイラ取りがミイラ」になるようなことがあってはならない。ゴミ屋敷のような魔境があることを学び、そこを訪れたら、すみやかに立ち去ることがとても大切なポイントだ。ベクシンスキーの絵画は面白いけれど、彼の非劇的な人生は私たちの人生の参考にならないように。
近所にあれば困るけど、遠くにあれば困らないゴミ屋敷。その存在は、不条理な戦闘が続く紛争地帯に似ている。ああ、我が家は平和地帯だ。