二本のベースギターを断捨離した
日曜日の朝。すでに寿命と思われるボロボロのベースギターを、ボディとネックを外し、燃えないごみに出した。楽器を破壊することは、人を殺めるようで苦しくなる。
安物の、そこそこキレイなベースギターの方は、夕方に「さしあげます。欲しい人は、どうぞ」と張り紙をつけて、道路脇に置いた。
夜が更けると、雨が降り始めたので濡れてしまうと思い、急いで駆け戻ると、すでにベースはなかった。
近所には中学校があるので、月曜日の早朝に中学生が拾ってくれることを密かに願っていたけど、こんな日曜日の夜半に拾う人は、きっと中学生ではないだろう。
ボロボロな方のベースギターも、いまから十年以上前に、三鷹の道ばたに放置されていたもので、三十代の私が拾ったものだった。練習用の楽器は、このようにして人々の手を次々と渡ってゆくのかもしれない。
貧すれば鈍する世界からの脱却
四十半ばになり、人生の半分に差し掛かった。ここ最近一ヶ月は、頼まれ事の編集の空きをみて、自宅兼作業部屋の掃除ばかりし、同時に会計の勉強をしていた。週に一度の土曜日は、近所で家族と外食をし、大切な時間を共に過ごした。この流れのなかでも、ベースギターは入り込む余地はない。
お部屋や机は滑走路だと思う。ものごとが整うと、いままで見えなかった「先にあるもの」も見えてくる。掃除とは不思議なもので、ゴールにはたどり着くのではなく、導かれるのようにして完了する。
こうして、キャンバスに目が向くようになった。
貧すれば鈍する。時間やお金、精神的な余裕がないと、絵を描くことは難しいだろう。
数年のブランクを経て、再びキャンバスの前に戻ってきたようだ。いつでも描ける状態ではあるので、あとは、集中力とアイデアかな。